最近の活動から 久しぶり「花さき山」 |
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| 2009年2月11日 |
アナ・トーク学院(鈴木美智子学院長)の依頼で、アナウンスの講座をすることになり、旧い友人である鈴木さんから「講座の中で<花さき山>を語って」とリクエストがありました。授業が終わった「朗読」のクラスからも聞きにきてくださったので「語り」と「朗読」の違いもお話ししました。
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「わが涙よわが歌となれ」(原崎百子著)から |
 「花さき山」 |
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朗読も語りも、文字を音声に換える作業は同じですが、本を見ている場合は、本(作品)と読み手の間にできる空間で表現が決まります。読み手が、一夜にして価値観が変わるような体験をしない限り、きのうも、きょうも、あしたも、そんなに表現は変わりません。聞き手は、「作品を読んでいる読み手を横から見ている」関係で、表現も聞き方も客観的です。 |
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「語り」の場合は、語り手の心の中にある作品と、語り手、そして聞き手、このトライアングルの中に、そのとき、その場だけに生まれる音声表現です。
聞き手の心の動きが表現に反映することが多く、聞き手の息遣いや瞳の動きなどが作品を変えるので、何度語っても飽きることがありませんでした。 |
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作品によって、朗読がふさわしかったり、語りがよかったりすると思いますが、どちらも、表現したものをどれだけ聞き手の心に引き取ってもらえるかが分かれ道です。そして、何が成否を分けるかといえば、語り手や読み手を、聞き手が受け入れてくれるかどうか、表現する人間を好きだと思ってもらえるかどうかです。 |
| これは、日常の音声表現すべてにいえることで、ひとは自分が好きだと思えるひとの言葉しか受け入れることはありません。どんなに立派なことをいっていただいたとしても、嫌いだと思うひとの言葉は心にしみないでしょう。
「聞き手から好きだと思ってもらってください。あなたの声を、あなたの言葉で表現される作品を聞きたいと思っていただいてください。これが特効薬です」カリフォルニアで行った
「第2回吉田塾(ベイエリア日記)」でも同じことをお話ししたのを思い出します。 |
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表現者として避けなければならないのは、自分をより大きく見せようとしたり、よそゆきの自分になってしまうこと。大事なことは「自然であること」、そして、「自然のままの自分」を受け入れてもらえるような・・・これが理想です。 |
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「作り物」になりがちな「言葉」というもので何かを伝えたいと思えば、少なくとも自分が作りものであってはダメなのです。読み手や語り手の存在そのものが問われる作業です。厳しくて、楽しい道を行こうとされるみなさん、月並みですが「がんばって!」とエールを送ります。 |
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